Nero’s備忘録~育休中パパはじめての子育て~

パパ育休真っ最中。パパ育休の布教活動、子育て日記他、備忘録。

中学生の登校を横目に~中学生時代のお話~

こんばんは、Neroです。

 

 

我が家が面している道は、地元中学生の通学路になっているようです。

 

本日月曜日は燃えるゴミの日。

朝7時ごろ、息子君のオムツでパンパンになったゴミ袋をえいさほいさと運んでいると、何人もの中学生とすれ違いました。

会社に行っていた頃は、もう少し出勤時間が遅かったので、中学生の方がお早い登校だったようです。

つい先月までランドセルを背負っていたような子が、ブカブカの学ランを着ている姿を見ると、4月らしい光景だな、と感じます。

 

 

私が住んでいる地域では、先週7日が一斉に小中学校の入学式・始業式だったようです。この土日を挟んで、今日からいよいよ本格稼働といったところでしょうか。

 

中学生たちは、2~3人のグループを作って一緒に登校しています。

先週の僅か2日間の稼働日でもうお友達を作ったのでしょうか…。いやいや、同じ小学校から持ち上がった友達と登校してるのかな~。と、勝手に考えます。

慣れない新しい環境は、誰でも不安です。小学校からのお友達の存在は、心強いものがあるのではないでしょうか。

 

 

本日は自分語りさせて頂きたいと思います。お時間あればお付き合いください。

 

 

私が中学校に入学したのは、かれこれ20年以上前の話です。時がたつのは早いものだ…。

2つの小学校に通う生徒が、1つの中学校に持ち上がりました。

確か1クラス40人くらいいたと思います。それが7クラスありましたので、今思えば、そこそこの規模感の中学校でした。

 

入学式の後、クラスへ入り「あいうえお順」である出席番号で決められていた席で、偶然隣になった友人が、20年経った今でも仲良くしている友人の1人です。先日息子君にも会いに来てくれました。

 

昨今、「○○ガチャ」なんて言葉を聞くことがありますが、まさにこの友人との出会いは「友人ガチャ」。

40人×7クラス=約280人の中で、たまたま隣にならなかったら、20年経った今、たぶん「名前は知ってるけど、そんな奴いたな~」で終わっていたと思います。

 

 

さて、そんな私ですが、中学校時代は所謂「不登校」の子でした。

中学校3年間の出席日数は、半数に満たない程度で終わったと記憶しています。

 

私の場合は、上記の友人の他、複数の友人にも恵まれました。

毎朝、学校から一番遠い友人が、二番目に遠い我が家に必ず寄ってくれ、チャイムを押してくれました。

調子のいい時は一緒に登校し、悪い時は自室で布団をかぶり、母親が「ごめんね~…」と言っているのを聞いていました。

その後合流して6人の朝の登校集団に(私が不在なら5人になるわけですが)なり、それがそのまま20年来の友人になっています。

 

小学校の頃からその傾向はあり、4年・5年生の時も同様に不登校を経験しました。

小学生の時も中学生の時も、他の友人たちにいじめられていたわけでもなく、はっきりとした理由がないのに、なんとなく行きたくない。

 

親とは毎朝大喧嘩です。

「なんで学校行かないの!」

「だって行きたくない!」

「行かなきゃダメでしょ!」

「行きたくない!」…と自室から出ない。

3歳下の妹は毎朝繰り広げられる母と兄の喧嘩を、どう見ていたのでしょうか。

 

 

今では不登校の子、というのは珍しくないのでしょうか。

私の時代では小学校では私だけ、中学校では他に1人か2人いたかな、というくらいで、周囲からは、異質な物として目を向けられた記憶があります。

 

両親はありとあらゆる努力を重ねて、私を学校に行けるようにと試みてくれました。

保健室登校をやってみたり、カウンセリングを受けてみたり、フリースクールに行ってみたり。

内容についてはあまり記憶にないのですが、当時のそれらは「学校に戻ることが前提」であったような気がしています。

結局そのまま行ったり、行かなかったりを繰り返し。

学校の先生や、上記友人たちからは「せめてイベント事には来ようよ!」と誘っていただき、修学旅行などだけには行っていたため、そのほかのクラスメイトからは「楽しい時だけ来る奴」などど揶揄されたりもしました。そりゃそう見えるよな~…。

中学校の卒業式は出席せずに終わりました。

 

 

大人になった今、「なぜ学校が嫌だったのか」を考えました。

 

1.先生の怒鳴り声が嫌だった。

今はどうかわかりませんが、私の中学生の頃、体罰はだいぶ下火の時代でしたが、多感な中学生を統率するため、多くの先生が怒鳴り声をあげていました。

それは特段私個人に発せられたものではなく、問題ごとを起こしているクラスメイト、あるいはクラス全体に対して。

自分にだけされているものではない、と理解はしているのに、怒鳴り声を浴びる空間にいるのが我慢できなかった。

 

2.異常に周りの目を気にしていた

多感なティーンエイジャーです。大なり小なり周りの目を気にすることは、誰にでも起こること。

他の人と程度の差はわかりませんが、私は「人からどう見られるか」を異常に気にしていました。

上記の友人はいましたが、クラスの中で常に一緒にいたわけではなく、時折一人になる。一人になっている自分を、「あいつは友達いない奴だ」と周りのクラスメイトが揶揄しているのではないか、と思ってしまう。

それが段々と見えないストレスとなり、蓄積されてしんどくなり、嫌になる。

そして不登校になったことで、「不登校のクラスメイト」というレッテルを貼られた自分を卑下し、周りが好奇の目で見ているのではないかと、必要以上に怯える。

学校外の友人や、年に2回程度しか会わない従兄妹に対してすら、嘘をついてまで、自分が不登校であることを隠していました。

不登校である」というレッテルを貼られ、好奇の目で見られることを、異常にまで避けていました。

 

3.朝が弱かった

就寝前、心新たに「明日こそ、学校へ行こう」と心に決め、友人に明日の時間割を電話で聞き、準備も万端に済ませ、早めに床につく。

ところが、翌朝目覚めたら、起き上がれない。

「学校に行きたくない」というネガティブな感情で支配されて、布団から出ようとしない。

そのうちに母がやってきて、上記の押し問答。

でも、妹が学校に行き、父が出勤し、母がパートに出かけ、家に誰もいなくなったとたん、元気を取り戻す。

テレビを見たり、ビデオを見たり、当時はまだ珍しかったパソコンを触ったり。

そしてそれを繰り返す…。

 

4.嫌な記憶を勝手に想像をして、嫌になる。

8時15分に始業し、終業は16時ごろだったと思います。

「そんなに長い時間学校にいる自分」を想像して嫌になる。

案外行ったらなんとかなったりするものですが、勝手に嫌な想像をして、それで嫌になって行けなくなる。

あるいは、クラスメイトより時折、自分にとっては嫌な言葉を投げかけられたりします。それをいつまでも想像の中で反芻し、嫌になる。

 

5.昼間の学校はうるさい

40人の子が狭い教室にすし詰めになっています。単純にうるさい。耳をふさぎたくなる。

多くの生徒が下校した後の、夕方の学校は好きでした。

 

 

今の時代なら、「発達障害」とか「小児うつ」とか何かしらカテゴライズされた名前が付くのでしょうか。

当時の私が、それらに該当したのかはわかりませんが、こうして中学校3年間を終えました。

 

 

大人になって今振り返ると、中学校の時に学校に行けなかった「私」は、それなりに大人になりながら、高校、大学、社会人と進んでいくわけですが、

大なり小なり「成長」はしているものの、「本質となる人間の性質」の部分は変化がないなと感じます。

また機会があればお付き合いいただきたいですが、高校では一度進学した高校を1日で辞め、社会人になってからは精神疾患を経験しています。

 

 

そんな「私」と、私はいかに付き合っていくのか。大事な妻、息子君、猫様と共に。

これがこの後の人生の、大きな命題の一つかな、と思ったりする、今日この頃です。

 

 

3000文字超えましたね…。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

 

次節、高校生時代のお話その①

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