高校生の部活動を横目に~高校生時代のお話その①~
こんばんは、Neroです。
我が家から車で5分ほど走ったところに、高校があります。
学区で一番偏差値が高いとされる公立高校で、毎年名だたる大学へ学生を輩出しているようです。
夕方ごろ、車でその高校の横を通り過ぎると、部活動中と思わしき高校生たちが、敷地の周りの道を体育着姿でランニングをしておりました。
コロナ禍で部活動すら行えない、なんてニュースを耳にする時期もありましたが、そういったことも徐々に下火になってきたのでしょうか。
10代の学生さんたちが流す汗が、非常に眩しい光景でした。
先日に引き続き、自分語りをさせて頂きたく存じます。お時間あればお付き合いください。
今回は高校生時代のお話となります。
前段となる中学生時代の話を、こちらの記事で綴っております。お時間あればこちらもどうぞ。
不登校の子どもだった中学生時代。
そんな私にも、中学3年生の中盤に差し掛かってくると、「進路どうする」という話が舞い込んできます。
私の両親は、「どんな形であれ、大学は出てほしい」という考え方でした。
それが、どんなにありがたい考え方だったのか、今となっては痛感しているわけですが、
当時の私にはそんなところまで理解ができるわけがなく、「親が大学行けって言ってるから、大学は行こうかな。そうすると高校も行かないといけないな。」程度にしか思っていませんでした。
当時の私は、「憧れ」と「見栄」がとても強かったと思います。
言い換えれば、「憧れ」は「隣の芝生は青く見える」。「見栄」は「人からどう思われるか」。
当時の私は、と書きましたが、それは20年程経った今も、本質的なところは変わっていないような気がします。
青春を謳歌する高校生活に「憧れ」、そんな理想の高校生活を送っているように「見栄」を張りたい。
この後列記する私の行動には、そんな私の「憧れ」と「見栄」に対する固執が根本にあるりました。
私が住んでいた場所は、ある地方県。首都圏の受験事情とは異なっているかもしれません。
私の地域・時代の高校進学の受験事情は、
「特別な事情が無ければ、第1志望は公立高校。公立高校に不合格となってしまった場合のことを考え、滑り止めとして私立高校を受験しておく。」
…という考え方が、一般的な物でした。
公立高校については、学区が決められており、学区内で偏差値で明確にされた、順位付けがありました。
中学校の成績を含めた、内申点と呼ばれるもので、どのランクの公立高校を受験するか、先生との面談で決めます。
公立高校には、同じような内申点をもつ中学生が集まります。コースも原則「普通科」などの1本のみです。
一方私立高校は、結果的に、公立高校の受験がうまくいかなかった子達が、多くを占めます。
私立高校は公立高校と違い、同じ高校内にいくつか「コース」を持つ所が大半でした。
私立高校自体で偏差値の差もありますが、広く生徒を集める為なのか、偏差値のレベルで区分けされた、「コース」がありました。
受験の際は、高校の選択と同時に、この「コース」を選択する必要があります。
さて、先ほど「特別な事情が無ければ」と綴りましたが、その特別な事情を持つ子が使うのが、「私立単願」というやり方。
上記の通り、多くの子が、「公立高校を第1希望とし、滑り止めで私立を受ける」という形をとる中、「あえて私立1本しか受験しない」やり方です。
基本的には「高校浪人」が出ることが無いように設計されており、中学側と高校側で水面下で調整された上、「私立単願」であれば、テストさえ受験すれば、ほぼ合格する、という仕組みになっていたようです。
「私立単願」を選ぶ子のパターンは2つ。
1つ目…
ここまで、ネガティブな内容で私立高校のことを記載してしまいましたが、
私立高校の中にも、「私立高校だからできる、独自のカリュキュラム」を打ち出している高校が、少々ありました。
例えば2年生の1年間は海外にホームステイをして、現地の高校に通う、など。
当然このカリュキュラムに惹かれて、受験を希望する子もいたわけです。
この場合はどの子でも受験できるわけでなく、中学生時代で優秀な内申点を持ち、なおかつ英語の成績が良好な子が受験できるわけです。
受験そのものよりも、それまでの内申点がモノを言うわけですね。
2つ目…
内申点が低い子が取れる選択肢。
これが私のような不登校の子が、高校に進学できる道でした。
当時の高校受験事情の説明が長くなりましたが、
私の場合、中学校の先生から、「内申点が足りないので、公立高校に合格する見込みは無い。私立単願なら受け入れてくれる私立高校がいくつかある」と、言われました。
内申点には、出席日数が影響します。
仮に定期テストで満点を取り続けていたとしても、出席日数が著しく少ない私は、この時点で公立高校はアウト。
少なからずショックを受けます。
そして選べる私立高校というのが、
「A高校…一番下のランクのコース(偏差値そのものが低い高校)
B高校…一番下のランクのコース(一番上のコースが1年間英語留学のコース)
C高校…不登校の子たちを専門に集めたコース」
この3択でした。
冒頭申し上げた通り、私は「憧れ」と「見栄」に固執していました。
C高校のそのコースに行けば、「私は中学校時代不登校でした」と、学校名とコース名を言う度に、自己申告しているようなものだ、と却下。
不登校であることを、極限まで他人に知られたくなかったのです。
…「見栄」への固執です。
B高校は、一番上が1年間英語留学のコース。2番目、3番目のコースがあり、4番目一番下のコースが選択肢として与えられている。
例え一番下のコースでも、他のコースの人と仲良くなったりもして、気の合う友人や、何なら彼女だってできるかも!
…「憧れ」への執着です。
…私はB高校、一番下のコースを私立単願で選ぶことにしました。
結果的にこのB高校へは、入学式と、翌日の通常授業を1日行っただけで、行かなくなってしまいました。
通常授業2日目の朝、親と交わした喧嘩は、中学校時代のそれとは比べ物にならないくらい、激しいものでした。
私立単願を選ぶ2つ目の子のパターンに、「内申点が低い子が取れる選択肢」と綴りましたが、
多感な中学生時代。本当に「いろいろな子」がいます。
その「いろいろな子」を持つ親御さんが、「高校は出てほしい」との願いのもと、最後の頼みの綱として選ぶのが、B高校の一番下のコースでした。
中学校時代、所謂「問題行動」を起こすような子でも、心根が優しいヤツは山ほどいます(そうでないヤツもいますが…)。
でもそれは、大人になって当時を思い返す、あるいは大人になり、お互いに成長し再会して初めてわかるもので、
お互い多感な盛りの高校生時代に、合うわけがありません。
私はクラスメイトの恫喝とも取れる声に怯え、それを統制しようとする教師の声に怯えました。
中学校時代、交わったことが無いタイプの子が大半を占めるクラスで、すぐに「もう無理」と心がSOSを出しました。
そもそも中学校の時に感じていた、「学校が何となく嫌」が、高校生になった瞬間に変化するわけもなく。
さらに私が「憧れ」の高校生活として、一縷の望みを持っていた、他のコースの学生との交流も、全くない事がわかりました。
校舎そのものが違っていた上、他コースの校舎に入ってはいけない校則まであったくらいです。
自分をしっかりと顧みることなく、自分がどうすれば生きやすいか、を考えることもなく、「見栄」と「憧れ」だけで選んだ高校生活の第一歩は、もろくも一瞬で破綻しました。
私立高校でしたので、入学金・授業料等で恐らく100万円を超えるような学費を、既に両親は払ってくれていましたが、
それをわずか2日で泡に返しました。
3000文字超えて、長くなりすぎてきましたので、この後のお話はまた次回…。
よろしければその際も、御高覧頂けますと幸いです。
お付き合いありがとうございました。
次節 高校生時代のお話その②
前段 中学校時代のお話